ベトナム革命運動と小石川

来日時期のクォンデ候(左)とチャウ氏
来日時期のクォンデ候(左)とチャウ氏

ベトナム独立運動史上で、ホー・チ・ミンと並び有名な人物がいる。日本、中国、タイを舞台に祖国独立に命をかけた一人の革命家、潘佩珠(ファンボイチャウ、1867~1940)氏は、日露戦争期、1905年4月密かに来日した。

 

少年時代から神童と言われ、科挙試験に首席で合格するも、宗主国フランスからの圧政に民族独立を目指し、ベトナムのエンペラー彊柢(クォンデ)候(1882~1951)と日本の革命期、明治維新になぞらえて、維新会を結成した。

 

維新会は当時大国ロシアに勝利した日本に、ベトナム革命のための武器供与を画策した。犬飼毅、大隈重信、玄洋社総帥頭山満、宮崎滔天、孫文、梁啓超など時の大物政治家、革命家との知遇を得るも、「革命には周到な準備が必要也。今は教育こそ要也」と諭された。

 

ファン氏はベトナムの青年達に向けて、「勧国民資助遊学文」という著作を著した。その一文に「日本が黄人種の蹂躙に初めて歯止めをかけた。なぜ日本がそれをなし得たか。答えは東京にある。中国、朝鮮、インドからの留学生で東京は溢れている。ベトナムの青年たちも日本に行き、そして日本に学べ」と。

 

維新会はこの一書を携え、母国の篤志家や同志に向け、資金を集めベトナム人青年達を日本へと留学させた。維新会会主クォンデ候の亡命に奔走し、候が来日すると青年達の留学熱が高まった。

「東遊(ドンズー)運動」と呼ばれたこの運動は、後のベトナム革命運動の碑となる重要な運動であった。辮髪と中国名で身分を隠し、犬飼らの斡旋で、陸軍兵学校、振武学校、東亜同文書院(目白)で学んだという。

 

留学生の中には、小学生も見え、小石川表町(現在の小石川4丁目)の礎川小学校にも3名の留学生が通っていた。1906年~1908年の最盛期には200余名の留学生に達し、革命に燃えた若きベトナムの青年達はクォンデ候の住まう本郷森川町の周り、小石川、大塚、関口、小日向に散居していたのだ。

今から100余年も前、小石川はベトナム青年達の熱き心で燃えていたのだ。

東遊運動顕彰会

    出典 ヴェトナム亡国史、潘佩珠自判(共に潘佩珠著作)。

        文中、「犬飼」の表記は、本家の表記をそのまま使用。