2022年4月2日

石原慎太郎氏とベトナム

今年2月、元東京都知事、石原慎太郎氏が亡くなった。常に話題を背負って、世に登場し、自論を世に問い、動かすと言う、氏独特のスタイルは、芥川賞受賞作家から、参議トップ当選、衆議院議員、運輸大臣と上っていった。

 

一度は政界を引退するも、都知事選に出馬。氏曰く、「候補者たちの低劣な議論をしているのに呆れて、衝動的に決心」と記している。

 

そもそも、なぜ、芥川賞作家が政治家の途をえらんだのだろうか?

 

そこには、氏とベトナム戦争との実体験が、大きな動機になっている。

昭和41年暮れ近く、ベトナム戦争のさなか、戦争当事者の間で、クリスマス停戦が実現読売新聞の依頼での取材だった。

 

停戦取材であっても、広域に拡がった戦闘箇所は単発的な戦闘は継続されていた。

前線での取材、野戦での待ち伏せ作戦では、丸腰のまま、ポンチョ1枚くるまり、ベトコンの襲来におびえながら、携帯していた万年筆1本を武器に、眠れぬ夜を明かしたと言う。米軍の、南部ベトナム各地でのゲリラ戦に対する物量での反撃が、やがて疲弊と厭戦へつながる事を予感し、氏は米軍のベトナムでの敗北を確信した。

 

氏の言論や著作をふまえると、「国家」と言う単語が飛び交う。

この取材でも、氏は、南ベトナムのインテリ達との交流で、アメリカが撤退し、国が滅亡する瀬戸際であっても、それをただ傍観しているだけのインテリの無力さにそれを日本におきかえてみたそうだ。

 

「戦後日本に国家意志はありや」氏は当時、高度成長に沸く日本にありながら、よもや戦前の言語たる「国家」と言う命題を自らの政治の中心に据えた。すなわち、国家意志を自らが明確に示し(問い)、行動する(動かす)者、政治家を志したのだ。

 

氏の叙述を記したものを読むと、随所にベトナムの経験が述べられている。

もし、氏がベトナムに取材に行かなかったら、政治家石原慎太郎は生まれていなかったかもしれない。

2022年3月26日土曜日

豊島区雑司ヶ谷霊園 陳東風青年墓

1905年、フランスの抑圧政策に、一策を図ったベトナム人革命家、ファンボイチャウは、越南光復会と言う革命組織を立ち上げて、徒手空拳、日本へ向け武器供与嘆願のために密航した。

 

同時期、中国人革命家の知遇を得て、犬養毅、大隈重信らの厚誼を享ける事ができた。

 

犬養らは、明治維新の経験から、革命には、人材の育成が肝要と説き、武器供与の代わりに、ベトナム人青年達の日本留学の手助けを行った。1906年から1908年までの、日本留学を東遊運動(ドンズー運動)と呼ばれた。

200余名の青年たちが、日本へ留学、彼らの出身地を大別すると、北部40、中部50、南部100(各人)と圧倒的に南部ベトナム人が多かった。

中部ゲアン出身の陳東風(チャンドンフォン)青年は、富豪の子息であったが、留学費用の無心の手紙も、フランス当局に握られ、送金は途絶えてしまった。

そんな折、日本とフランスとの日仏協約が締結され、在日ベトナム人に対する追放圧力が始まった。

 

南部人たちの目溢しで居る卑屈感、大志を打ち砕かれた失望感、青年の前途は、死を選んだ。江戸期には栄えた小石川関口、新長谷寺(しんちょうこくじ)で、縊死した。刀剣鍛冶職の信仰を集めたこの寺も、維新を境に、氏子もいなくなり、寂れていった。記録には、東峯寺とあるが、正しくは、東峯山浄滝院とあり、通称東峯寺と称されていたのだろうか。

 

墓石には「同胞志士陳東風亗墓」とあり、没年が、戊申(明治41年1908年)五月初二日死と記されている。

向かって右には、生以甲申(明治17年1884年)となっていて、 墓石銘を見る限り、没年齢は24歳となる。

 

「自判」と言う、ファンボイチャウが、東遊運動の顛末を、トピックごとに記録した日記文からであるが、解説をした、内海三八郎氏は、ベトナム人の地域性を解説している。

 

即ち、北部、中部、南部、のベトナム人の気質が、色濃く分かれていて、彼らが集団を形成すると、気質の違いから、衝突が起こりやすい、と解説している。

 

私自身も、レストラン経営の中で、なるべく気を付けていたのが、北部人と南部人を同一にしない、と言う経験はしてきた。

 

ベトナム人と、一言で、同じアイデンティティーを持つているのではないことを、気に留める必要がある。なぜなら、3つの地域の特性以外に、ベトナムは、公表されているだけで、51の民族で構成されてる、他民族国家である事を、忘れてはならない。

 (文・田村和彦)